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東松島市災害ボランティア(2)悲しみのつまった「瓦礫」  新倉 太郎    

2013年4月掲載  

 

 一昨年の五月の連休に、僕が被災地に入った日には、ドブ川の臭いに満ちた街に埃が舞い、陽の光は容赦なく照りつけていました。ヘルメットをかぶり防塵マスクとゴーグルをした僕の顔は汗だく、鉄板が底に入った作業用長靴を履いた足も、長袖の作業着と雨具を着た上半身も汗でぐっしょり。
 大勢の人たちとチームを組んで、津波の被害をうけたお宅を訪ね、作業をしました。瓦礫を取り除き、畳を上げて床を剥がし、床下の汚泥を掻き、それを土嚢袋に入れます。そして汚泥を取った床下に石灰を撒きます。
 いま、簡単に「瓦礫」と一言で云ってしまいますが、津波に流される前まではそれらは人の所有物であり、それぞれちゃんとした名前がついていました。でも、それらは永久に持ち主に帰ることなく「瓦礫」ということばで処理をされるのです。汚泥にまみれたそれらのものは、衛生的にも問題があるので、瓦礫にせざるを得ません。子供たちが使ったノートには、学校で教わったことが幼い文字で書かれています。また友だちからもらった年賀状には、今年はサッカーを一緒にやりましょう、などと書かれていました。彼らはサッカーをすることができたのでしょうか。そもそも無事に生きているのでしょうか。瓦礫には悲しみがたくさんつまっているのです。 一方で庭の掃除も怠りなくやらなければなりません。庭に堆積した汚泥の量は床下の比ではありません。何チームも庭に入り、汚泥を除く作業をしました。海水に浸かり汚泥にまみれてしまった樹木、花壇の花々。これらは残念ながら夏を越す頃、ほとんどが枯れてしまう運命にありました。その家の人が大事にして、丹精込めて育てていた樹木の枝を打ち、幹を鋸で切り、根っこはスコップで掘り出します。そのような作業のすべてが死者を弔う儀式のようで自然と涙が溢れてきました。
 震災から二年経ったいま、町から瓦礫はほとんど取り除かれました。しかし再建復興にはほど遠い状況です。流された家、壊された家のあった場所は更地となり何も建っていません。
 市西部の野蒜地区は、市内でも最も被害の大きかった地区です。この地区において、市が指定した避難場所は野蒜小学校でした。地震直後から付近の住民が続々とこの小学校の体育館に避難してきたのです。地震から一時間すこし経った午後四時ころ、小学校に津波が押し寄せ、あっと云う間に体育館の中にも黒く濁った水が入ってきました。行き場を失った濁流は体育館の中で渦を巻いたそうです。その渦に呑まれて何人の人が犠牲になったのでしょうか。
 大きな被害のあった野蒜小学校よりもずっと海岸に近い所にある鳴瀬第二中学校では、その日、卒業式でした。午後地震が来た時に学校にいた生徒たちは校舎の二階や屋上に上がり、助かりました。鳴瀬二中では死亡した人はいません。
 鳴瀬二中の校舎に掛っている時計は、三時四七分を、野蒜小学校の校舎に掛っている時計は、三時五八分を指したままになっています。両校とも廃校が決まりました。他の学校と統合して、高台にできる新しい学校はこの四月に開校します。つづく

●新倉太郎(にいくら たろう)久が原在住

 

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